「ありがとうございました」

私、堤京子は今日最後の客を業務的なセリフで送りだすと、憂鬱な顔で何度目かのため息を吐いた。

ここ「おまじないハウス」にて黙々と販売業務をこなしてはいるが、 その仕事は望まざるものだ。 安い石を願いを叶える宝石として市場より数倍の値段で売りつける仕事を望んで行うほど、 私は腐っていない。しかし、今の私には選択権がなかった。 そして閉店後行われる「儀式」にも、同じ理由で拒否が出来ない立場だ。 自分の立場を再認識した私は、自然にまたため息を吐いた。

仕事仲間で閉店作業をこなし、皆を送り出す。 最後の戸締りは防犯のため販売責任者である私の仕事という話になっていた。 しかし本当の理由は防犯ではなく、儀式のためだ。 私は重い足取りで普段は立ち入らない倉庫に向かう。 いつものように思った。何度も唱えた。私はただの肉のかたまりなのだ、と。

「ふ、ふ、ふへへ…、待ってたよ…。えへ……、えへへへ……」

重い、重いドアを開けると、「おまじないハウス」仕入れ、会計担当、いわゆるマネージャーの荒井が、 いつものように息を荒らげて待っていた。 心の腐臭が言動や肥え太った醜い身体にまで出ている、わかりやすい一例の人物。 それが荒井だった。

荒井は近づき、私は押し倒される。 そう、私は肉のかたまり、私は肉のかたまり、私は肉のかたまり。 しかし、耐えられない。

「む、むね、大きい胸……、しゃぶりたいな…、へへ、えへへへへ」

しゃべるな、腐臭がする。手を近づけるな、腐臭がする。顔を近づけるな、腐臭がする。服を脱がすな、腐臭がする。

「えへ、その反抗的な目……、いいよぉ…、とても、いいよ…、えへー、えへへ…」

彼をこれ以上喜ばせるのは嫌なので、私は目を閉じた。

ひゅばっ

瞬間、赤い光が走った気がした。 そして、腐臭が遠ざかっていた。私はゆっくりと目を開けた。

荒井の姿は目の前にはなかった。 だが、向かいの壁に先程までなかったものがあった。 赤い粘液のようなものに固定された、荒井の姿だった。 さらにもうひとつ先程までなかったものがあった。 背後に気配を感じるのだ。 私は恐る恐る振り返る。

そこにいたのは女だった。 これ以上ないほどわかりやすいメイドのコスチュームに身を包んだショートカットの女が、 白い布製のオペラグローブに右手を通しているところだった。 私は直感した。この女が荒井を捕らえたのだ。 そして、こいつは女の姿をしているが、人間ではない、と。

「そこのあなた…」

私には一瞥もせず、女は口を開く。

「このことは決っして口外しないこと。まあ、もし喋ったとしても信じるものはいないでしょうけど。 守れるわね?」

ただならぬものを感じた私はすぐに頷いた。

「ありがとう。では、あなたはここから立ち去りなさい、今すぐに。」

女は荒井に向かって滑るように歩いてゆく。 いや、長いスカートで足元が見えないので歩いてるとは限らない。 その証拠に、女から足音が聞こえない…。 私はぞっとしてその場から走り去った。

家に帰ったあとも眠れなかった。 あれは何者か、あのあと、どうなったのか…。 もし荒井が死んだとするなら、私はどうなるのだ…。 いろいろな考えがぐるぐる回り、気がつけば朝。 恐しかったが、なにが起きたのか確認するため、 それにもし何かあったときにあやしまれないために、 私は通常通り出勤することにした。

店の鍵は開いていた。昨日帰るときに閉め忘れたのだ。 しかしそれはささいなことだった。私は倉庫へと急ぐ。

扉を開ける。しかしそこは昨夜なにもなかったかのように静かで、 なんの痕跡も残っていなかった。壁の赤い粘液も、荒井も、そしてあの女も消えていた。 私はほっと、安心した。

それから通常通り皆が集まってきた。荒井以外は。 朝のミーティングの時間が近づいても、その時間になっても現れない。 皆が騒ぎはじめる。私の背中からは冷や汗が流れはじめる。

「あの男、やっと消えたのかな」「そうだといいけど」「ほんと、いなくなってくれればいいのに」

なにかを聞かれた気がしたが、「そうね」と気のない返事をする。

そしていつもの時間から5分ほど遅れて彼は現れた。私は安堵の息を吐く。 いや、安堵はできない。それに一見してわかるほど、彼の様子はおかしかった。 目の焦点は合っていないようだし、それに少し痩せたようにも見える…。 あれから一体なにがあったのか、私の疑念は深まる。彼が口を開く、一体なにを言う気…

「皆さん、おはようございます。えー、突然ですが、私は一身上の都合により退社することになりました。」

口にこそ出さないが、回りの空気が軽くなるのがよくわかった。そして私も安堵した。

「そこで後任なのですが、既に決定しております。どうぞ。」

彼の紹介で入ってきたのは、どこから見てもメイドのような服の、ショートカットの、女。

「時夜 円(ときや まどか)です。どうぞ、宜しくお願いします。」

深々と礼をする彼女に、回りの空気はさらに軽くなる。 しかし、私の足はいまにも崩れおち、私の思考は停止しそうになる。 そう、時夜円は、確かに、見紛うことなく、昨夜の、あの女だった。

「本日は引き継ぎを行いますが通常通りの業務とします。 明日から本格的に私に一任されることになります。」

どういうことなのだ。なにがあった。彼女がこれからマネージャー?なにが狙い?荒井は?

「堤さん」

ふいに名前を呼ばれ、反射的に「はい」と返事をする。

「聞きたいことがおありのご様子ですね。 私からも販売責任者のあなたに聞きたいことは沢山あるので、今日の閉店後、おつきあいください。」

さらに思わせぶりにこう付け加えたのだ。できれば二人きりで、と。私は「わかりました」と答える他なかった。


堤京子・序、完

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