驚いた。てっきり肉屋だと思っていたのに。
そう、今日が初出勤だった。ここが担当だという部屋に通されると、目の前は一面の肉壁だったのだ。あまりのことに声も出せなかった。監督から「肉壁を見るのは初めてですか」なんて聞かれたが、初めてに決まっている。そうそうあってたまるかこんなもの。
まあとにかく、仕事の内容は簡単だった。目の前の肉壁から、白い粒をつまみ取って、容器に入れる。担当の場所から全て取り除くことが出来れば終わり。掃除みたいなものだ。
……が。その白い粒ってのは米粒ぐらいの大きさしかないわ、しかも正面からは見えないような、奥の奥にもあるわ。肉をかきわけ、目を皿のようにして探さないといけない。正直なところ、疲れる。
ただ、帰りぎわ、監督が「初日でこれだけ出来るひとはなかなかいないですね」と言ってくれたのは、少し嬉しかった。立ちっぱなしなのもつらいけど、給料もいいし、わりと自分、向いているのかも、とか思っちゃったりして。
3日目
バイトの時間はあっという間に過ぎてしまう。集中しているからだろうか。そういえば昔っから、掃除をやり始めるととことんまでやらないと気が済まなくなっていたな。大物の家具まで一人でどかして、その下の埃をとったり。いつもはこんなズボラで汚い部屋なのに。
5日目
最初こそは隅から隅まで見なければならず、あまりに大変だったが、少しずつコツがわかってきた。例えばはじっこのほう。そこはどうも多く溜まりやすいらしく、前日に取ったのに次の日にはまたあったりする。また、説明しずらいのだが、少し違和感があるような場所にもよくある。他のよりも小さいヒダが2つ続けてあるような場所とか。大・小・大・小・大・大・小と並んでいるところの大と大の間とか。ちょっとリズムが変わるあたりによくひっついているのだ。
そういえば初日に監督が言っていた。この白い粒を放っておくと、肉壁のその部分がダメになってしまうのだと。病気の元なんだと。なるほど、人間でも生活のリズムが崩れると病気になったりするものな。あんな大きいからよくわからなかったが、あの肉壁も生物なんだな。
7日目
昇給だ、こんなに早く。
監督が笑顔で、たったの7日でここまで腕を上げた新人は、ほとんどいない。優秀だと褒めちぎられた。嬉しい。
ただそのかわり、今迄とは別の部屋になるそうだ。しかも前任者の2人とチームを組んでくれと、そういう話だった。
チームを組むというのに不安を覚えた。ただ監督が、結局やることは変わらない、個人プレイの仕事だ、それに給料も上げることが出来るというので、だったらと承諾した。
明日がどうなるか。前任はどういう人なのか。不安だ。
8日目
不安に思うことなどなかった。監督に紹介され、簡単な挨拶を交わしただけで、その場は終わりだった。チームとは言うが、二人とも声も出さず、黙々と作業をし始めたので、自分もその二人の中間あたりに立って仕事を始めた。
それよりも驚いたのは、新しい場所だった。肉壁の層がぶ厚く、やわらかく、ヒダが深い。手を突き出せば、どこまでも沈んでいった。
そんなところへ、二人とも手をおもいきりつっこんで、白い粒を取っている。これは、とんでもない現場だ。給料が上がるのもわかる。
ただ、自分も期待されてここに来たんだ。なんとか、なんとか頑張らねば。
10日目
なんとなく、二人の実力がわかってきた。
まずBだが、こいつはちゃらい。こいつのやった後は、まだ恐ろしく汚い。いくらでも白い粒を見つけることが出来る。
だがしかし、もうひとりのA。こいつはヤバい。俺がパーフェクトだと思っていた部分から、ひょいと、Aは粒を摘み取っていったのだ。
あれを見た瞬間、悔しさに打ちのめされた。しかも取ったあともこちらを一瞥もすることもなく、そのまま黙々と作業を続けやがる。ひょいひょいひょいと、また一つ、また一つ。まるで「その程度あたりまえ」と言わんばかりに。
いや、恐らくまだ自分がこの現場に慣れていないだけだ。傾向をつかみ切れていないのだ。慣れればこんなことはなくなるはずだ。自分は優秀なのだから。
15日目
相変わらず、自分がやった後からもAはつまみ取ってゆく。
傾向はだいたい掴めた。あの現場と同じように、正常なリズムというものが見えてきた。例えば、大・小・大・小・大ときて、次が小だった場合。前の現場であれば正しいリズムだったが、ここの場合は要注意なのだ。そうやって、修正がだんだんと出来てきた。
確かに最初の頃と比べれば、減った。しかし、それでもまだまだAはつみ取っていくのだ。つまみ取られる、その事実は自分が彼に劣っているという証明に他ならないのだ。
どうしてだ、なにが違うのか。なにを見落としているんだ。
20日目
なにが彼より劣っているのか、そのヒントすら掴めないまま、ただ肉壁とにらめっこを続けた。
彼は表情を出さない。だが笑っている。彼が家に帰ったあと、確実に俺のことを笑っているのだ。今日もあいつにしてやったと。
それがたまらなく悔しい。いまも絶対に笑っている。くそ、くそ、くそっ!
負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない負けたくない
23日目
監督から、今日は休めと言われた。ので今日は休みだ。
それで、ふっとこの日記を読み返してみた。そうしたら、書いてあったのだ。この状況を変えることが。
それは最初の気持ちだった。そして、あの肉壁は生物だということだった。
そうだ、生きているんだ。
競争にこだわりすぎていた。肉壁のことを忘れていた。生物であれば、リズムがある。昨日のことが、今日に影響し、そして明日に影響するんだ。
その場のリズムだけではない、時間も加味する必要があったんだ。
わかってみれば、それだけのことかもしれない。でも、明日からそれを念頭に置いて観察してみよう。
35日目
ついに、ついにやった。あいつのやった後から、1つ、見つけることが出来た。
一昨日あたりから、あいつが自分の後でなにも見つけることが出来ていないことに、僕は気付いていた。それはつまり、同等に立ちつつあるということだった。
そして今日、ついに1つ見つけたのだ。はっと気付き、手を伸ばしたその先に、確かな手応えがあったときには、大声を上げそうになった。
しかしそれは内に留めねばならなかった。あくまでクールに、声も表情も出さず、それを容器に入れねばならなかった。あいつを越えるために、だ。あいつのやったように、静かに踏み躙るのだ。
でも、しかし、もしかしたら手は震えていたかもしれない。いつもより、ゆっくりと入れてしまっていたかもしれない。……正直なところ仕方無いかもしれない。
だが、だいじょうぶだ。まだイケる自信が自分にはある。これは偶然の1個ではないと証明するためにも、もっと、もっと肉壁を学ばなければ。
40日目
今や、何故あいつのことをここまで悔しがっていたのだろうと疑問にすら思える。あいつのやったあとなんて、今の自分から見れば穴だらけだ。
そういえば最近、肉壁の表情がわかってきたような気がする。自分以外では到底見つけられないようなところのを取ってあげると、肉がやわらかくふるりと震えるのだ。きっと喜んでいるのだろうと思う。
42日目
今日、Aが出勤してこなかった。
正直なところ、まあ、別にいい。いてもいなくても、そう変わらない。ただ、Aはもしかして、負けたことが悔しかったのだろうか。傷つけてしまったのだろうか。
まあ、ぶっちゃけ、どうでもいい。今日も肉壁を喜ばせなければ。
45日目
Aは、あれからずっと出勤してきていない。多分、辞めたのだろう。
正直、Bが邪魔に思えてきた。彼は最初から仕事が出来ていなかったし、むしろ最近は目に見えてサボっている。いまやぶっちゃけ居なかろうが、作業量はほとんど変わらないのだ。
そういうわけで、今日、意を決し監督に伝えた。彼を自分の部屋の担当から外してくれ。一人で十分、いやむしろ彼が集中を妨げる分、マイナスになると。
監督は「考慮する」と言った。考慮する問題ではないと思うのだが。
47日目
ついにBが、担当から外れることになった。昨日も監督に訴えたのが効いたらしい。これでいよいよ、明日からはあの部屋に肉壁と自分だけだ。
ああ、よく考えると、この家に帰ってきてやることと言えば、この日記をつけて寝るぐらいだ。なんだろう、その時間、もったいないような気がしてきた。
肉壁の部屋で寝てしまえばいいのではないだろうか。あの奥のほうに入ってしまえば、きっと誰にもわからない。監督だってほとんど現場には来ないのだから。
そうだ、肉壁の中で寝る。それがいいじゃないか。何故いままでそれに気付かなかったのだろう。
そうすべきだ。そうしよう。